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フカボリインタビュー

泣きながら過ごした日々が、私を強くした──宮部藍梨、人生の転機

誰もが羨むような順風満帆に見えるキャリア。
けれど、その裏には語られてこなかった葛藤や迷い、壮絶な日々があったとか。何度も立ち止まりながらも、涙と共に前に進んできた宮部藍梨選手に、これまでの物語をうかがいました。

何度も、バレーボールをやめようと思った。

――これまでのキャリアの中で、「バレーボールをやめたい」と思ったことがあると聞きましたが本当ですか?

何度もあります。それも一瞬思ったとかではなく、辞めたいと思ってずっと悩んでいた時期がありました。

今でも思い出すのは、自分が「期待されている」空気と、実力とのギャップを強く感じた高校生の時です。高校二年で日本代表に選んでもらったことがあるのですが、選ばれたことはすごく光栄で嬉しかった。でも、代表活動から帰ってきたときに、練習もほとんどせずにそのまま試合に出ることになったのですが、「これは周りからよく思われないだろう」と、とても強く感じました。試合のために毎日辛い練習に挑んできたチームメイトたちがいるのに、一緒に練習していなかった自分が使われるということに強烈な違和感を抱いていました。バレーボールはチームスポーツなのに、自分だけ別の流れに乗せられているような感覚もあって「私が出ることで、誰かが出られない」という状況を、すごく苦しく感じました。正直、あのときはバレーがまったく楽しくなかったです。

自分はそこまでうまくないのに、「宮部藍梨」という名前だけが先に一人歩きしているような感覚があったんです。どんどん自分と評価とのズレが広がっていって、気持ちが追いつかなくなり、バレーを辞めたいと思うようになりました。

――実際に「辞めます」と伝えたこともあるんですか?

あります。監督に「もう無理です、辞めたいです」って伝えたことも、一度じゃないです。
それでも続けてこられたのは、自分は「やっぱりまだやれるんじゃないか」とどこかで思っていたのと、話を聞いてくれたり、引き止めてくれたりする人がいたからだと思います。でもあの頃は、本当にバレーが嫌いで、プレーしていても、何も楽しくなくて。「なんで自分だけこんなにしんどいんだろう」って、毎日考えていました。

人生の選択肢を増やすためにアメリカへ。

――高校卒業後、アメリカの大学へ進学されました。当時としては珍しい選択だったと思いますが、その背景にはどんな想いがあったのでしょうか。

一言でいうと「人生の選択肢を広げたかった」。バレーはもちろん続けたかったけど、いろんなことを学びたかったし、将来の可能性を広げるためにも、バレー以外の時間もちゃんと持ちたかった。

「自分のことを誰も知らない環境に行きたい」という気持ちも強かったです。ずっと「宮部藍梨」という名前が先にあったので、そういうバイアスみたいなものがかからない環境で一人の人間として学んでみたかったんです。

――ご家族や周囲の反応はどうでしたか?

正直、周りにはほとんど反対されました。「プロにならないの?」「大学なら日本でもいいじゃん」って言われました。
本当に最後まで背中を押してくれたのは家族だけでした。特に母は「やってみたらいい。失敗してもそれも経験。」って言ってくれて。その家族の姿勢には本当に救われました。最後は家族が味方になってくれると思っていたのでアメリカ行きも、全くためらわずに決めました。

アメリカでの涙の日々から得た気づき

――実際にアメリカへ渡ってみて、どんな日々が待っていましたか?

「全然違う世界があるんだな」って思いました。「試合に出られない」という経験がまずこれまでなかった。今までずっと、ありがたいことにコートに立たせてもらえる立場だったんですけど、アメリカではそうじゃなかった。日本では背は高い方ですが、アメリカだとむしろ低い方、日本だと高さでごまかせた得点力もアメリカだと通用しない。「出たい」と思っても出られない。そこがすごく苦しかったです。

――試合に出られない中で、どんなことを考えていたのでしょうか?

試合に出るとしても基本的には交代で出る立場だったので、まずプレータイムが短い中で結果を出さないといけない。たまに試合に出ても自分にボールが回ってこないことも多い。「どうすれば、自分にもチャンスが来るんだろう?」って、必死に考えました。

そこで気づかされたんです。自分のプレーを磨くのはもちろん必要ですが、それ以上に「チームの中でどう振る舞うか」がすごく大事だって。つまり「良いチームメイト」であることの重要性です。試合に出ている・出ていないに関わらず、普段の態度とか、周囲への働きかけとか、そういう部分もすごく見られてることに気づいたんです。

バレーボールって、ボールに触れるのは基本3回だけですよね。限られた中で「この選手に点を取らせたい」って仲間に思わせる存在じゃないと、トスは回ってこないし、輝くチャンスも回ってこないという現実を目の当たりにしました。

――「この選手が点を取ると2点、3点の価値がある」みたいな選手っていますよね。

まさにそれなんです。そういう選手になりたいって、初めて強く思いました。得点だけじゃなくて、存在がチームにとって価値のある人にならないとチャンスすら回ってこないんだって。それからは、プレー以外でも全部「周りのために動く」ということを意識するようになりました。私はそこまで器用なタイプじゃないけど、自分がやれることは何でもやろうって、腹をくくった感じを覚えています。

――それでも、精神的にはきつい部分もあったのでは?

めちゃくちゃありました。夜道をルームメイトと泣きながら歩いたことも何度もあります。でも何よりも自分を変えたのは「泣きながらご飯を食べたあの夜」だったなと思っています。

――泣きながらですか!?

これは恥ずかしいので、あまり公には話したことないんですが、自分が大きく成長した瞬間は、あの夜だったなと感じています。

試合には出られない、いろいろと出費が重なり金銭的にも追い込まれる、学業も大変で寝る時間もない、当然毎日の練習はハード。そういう環境の中で、さらに辛いことがいくつか重なった時期があって「もう無理だ」と思って涙が溢れてきたんです。

食欲もずっとなかったんですけど「ここで食べなきゃ死ぬ」と本当に感じて、お弁当を買って無理やり食べ物を口に突っ込みました。号泣しながら、生きるために食べている自分がいて、あの時に何か自分の中の価値観がガラッと変わったような気がしています。ターニングポイントと言われると、日本代表の経験よりもあの日の夜を思い出します。本当に、食べたというより口に突っ込むという感じでした。

――壮絶ですね…その経験をして何か大きな変化を感じましたか?

なんでもやる。そういう気持ちが確実に強くなりましたね。

今でも代表活動とかに行くと自分より上手な年下の選手はいくらでもいて、その年下の選手に「こうしたほうがいいよ」って言われることもあるんです。人によっては年下に言われて嫌じゃないの?って聞いてくれる人もいるんですけど、全然嫌じゃないです。私はもっと成長したいから、むしろもっと教えてと思っています。アメリカで泣き続けた期間を経験したことで、生きるためにすべて自分の糧にしてやろうという貪欲さが身についたと思います。

どん底を乗り越えたら、想像を超えた選択肢ができていた

――大学卒業後はそのままプロの道へ進まれましたが、それも最初から考えていたわけではなかったとお聞きしました。

はい、まったく考えていませんでした。むしろ「このままバレー辞めよう」って思っていたくらいでしたし、辞めるための準備もバッチリ整っていました。

というのも、大学の最終学年になっても、試合にはほとんど使ってもらえていなかったんです。バレーに対しての貪欲さや情熱は、おかげさまで強くなってはいたんですが、自分がバレーで食べていけるという未来は想像すらしていませんでした。もちろん、アメリカに行ったことはすごく貴重な経験だったし、自分の中で得たものも多かったけれど、「プレーヤーとして評価されている」という実感だけは全くなかったんです。

――そこから、どんな風にプロの道へ?

それがほんとに、偶然みたいな流れで。チーム内でケガ人やトラブルが続いて「とりあえず宮部、ちょっと出てみる?」って感じで試合に出ることになって。そうしたら、たまたま上手くフィットして、そのままメンバーに定着した期間があったという感じです。プロのお声がけをしてくれたのも、実はヴィクトリーナ姫路だけでした。

――それは、かなりドラマチックな展開ですね!

本当にそうです。「えっ、私でいいんですか?」って何回も聞きました(笑)。どん底を乗り越えた私だったので、チャンスをいただけるならなんでもやります!という気持ちでお返事させていただきました。

泥だらけのキャリアが私の誇り

――「順風満帆」というイメージの宮部選手でしたが、想像とは違うキャリアを歩んでいたんですね。

私は「履歴書に書く経歴だけ見たらピカピカ」って、よく自虐で言うんですけど(笑)中身は全然ピカピカじゃないんです。
心が折れそうになったことなんて何度もありますし、楽しいことより辛いことの方が多かったとすら思います。
自分で思い描いたことは何にもうまくいかなくて、泥だらけでした。でも、その雑草魂みたいなものが私をここまで連れてきてくれたエネルギーなのも事実なんですよね。だから、輝いていないキャリアの方が今の私の誇りです。

今はバレーも「やりたい」って思ってやっているし、少しずつ「誰かの夢になれたらいいな」とも思うようになってきました。私たちがテレビで見た、あの先輩選手たちのように、私たち現在のプレーヤーを見て「バレーをしたい」って思ってくれる子たちが増えたら良いなとも思えるようになりました。

本当にたくさん苦しみましたが、続けてきたからこそ、得られたものもある。それを知っているからこそ、今、何かに向き合っている子どもたちに「しんどい時期があっても大丈夫だよ」って伝えたい。私のことを見て、続けてみよう、やってみようって思ってもらえたら、それが一番うれしいです。これからも、一歩ずつ、自分らしく歩いていけたらいいなと思っています。

――では最後に現時点で、自分のキャリアに点数をつけるとしたら、何点でしょうか。

正直、点数をつけるのは難しいです。「大きなゴール」を設定してキャリアを積み上げてきたわけではなくて、目の前の目標に一生懸命取り組むということを繰り返してきただけなんです。なので、キャリア全体を点数で評価するよりも、「このシーズンを100点で終えたい」という気持ちで毎日を過ごしています。今シーズン、最高の景色を見るために今持っている『百%』を出し切りたい、そう思っています。

ヴィクトリーナ姫路 宮部藍梨選手

ヴィクトリーナ姫路 宮部藍梨選手

金蘭会高校では一年時から高校三冠を達成、高校二年で日本代表デビュー。

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