フカボリインタビュー
「誰かのため」が、私を支えた──髙柳有里、岡山シーガルズと心を共にして
中学生にしてプロの舞台を経験した岡山シーガルズ・髙柳有里選手。
早熟なキャリアとは裏腹に彼女のバレーボール人生は、いつも順風満帆だったわけではない。
公にはほとんど語ったことがないという高校時代の大怪我や、そこから生じた心の変化。
シーガルズと同じ価値観を持っている、と語る彼女が大切にしていることとは。

とまどいながら初めて経験したプロの舞台。

――中学生にしてプロのコートに立つという、素晴らしいキャリアをお持ちの髙柳選手。当時のことをお聞かせください。
中学3年の夏、私が通っていた中学校と岡山シーガルズの関係性もあり、シーガルズの一員としてサマーリーグ(若手選手の強化育成を主な目的とした、Vリーグ加盟チームおよび準加盟チームが参加する公式戦)に出場させてもらう機会に恵まれました。
ところが中学生のころの私は、バレーボールをプレーすることしか頭になく「サマーリーグって何?」という状態。「え、私が試合に出るの?」と、プロのコートに立つという実感もないまま当日を迎えました。
試合では全く思うようにプレーできず、そこで初めて「ここはプロの世界なんだ」と強く実感しました。同世代のセッターの子も一緒に出場しましたが、その子は良いプレーをしていた一方、私は全く調子が上がりませんでした。「何もできなかったな」という印象が今でも残っています。
当時、監督やコーチからは「すごい経験をしているんだよ」と声をかけてもらっていましたが、その意味や重みを本当に理解できたのは、ずっと後のことです。
大会の登録人数のルールや枠がどれほど限られたものだったか、プロになってから知りました。私がサマーリーグに出場させてもらったあのときも、シーガルズにも若手選手がいたはずで、その中の貴重な1枠を自分がいただいていたという事実にも気づきました。今になって振り返ると、「なぜもっと一生懸命になれなかったのか」と悔しさを感じることもあります。もっといろいろなことを考えてバレーボールに向き合っていたらチャンスを生かせたのかもしれないと、ほんの少し後悔のような気持ちもあります。
「自分のため」から「みんなのため」へ。怪我をしたことで視野が大きく広がった。

――そのまま順風満帆の高校時代かと思いきや、大きな怪我をされたとお聞きしました。
高校2年の11月、新人戦の最中に前十字靭帯を断裂しました。新人戦の最中で、チームの一体感も高まっていた時期でした。新チームとなり、翌年のインターハイ予選や、春高バレーの予選を目指して自分も気持ちを高めていたタイミングだったので、何が起きたのか最初は理解が追いつかず、現実を受け入れられませんでした。病院の先生や監督からは「3年の春高予選での復帰を目指そう」と励まされ、結局翌年2月に手術を受けました。高校3年の10月にある春高予選を目指して半年以上に及ぶ長いリハビリ生活が始まりました。
手術の直後は、本当に何もできない状態でした。膝は曲がらないし、毎日が痛みと不安の連続。周りのみんなは練習や試合に向けて前進しているのに、自分だけが取り残されていくようで、焦りや虚しさもありました。それでも不思議と「自分が可哀想だ」とは思わなかった。むしろ「これまでどれだけ周りに助けられてきたんだろう」という気持ちが日に日に大きくなっていきました。
というのも、リハビリ中、チームメイトが何気なく声をかけてくれたり、監督や先生たちが私の心に寄り添ってくれたり、そういった一つひとつの温かい行動がたくさんあったからです。その気持ちがありがたくて、怪我をしてから割と早い段階で「プレー以外の自分」に向き合うようになりました。今までは試合に出て勝つことがチームのためだと思っていたけれど、それができなくなったとき、一気に視野が広がるのを感じたんです。
それからは練習に出られなくても自分にできることを探すようになりました。声を出すこと、進んで練習の準備を行うこと、笑顔でいること。小さなことかもしれませんが、「みんなのため」にできることがあるならなんでもやろうと思えました。今思えば、毎日必死に「みんなのため」を考えていたおかげで、リハビリ中にネガティブになることもほとんどなく「試合には出ていなくても私はこのチームの一員だ」と誇らしくさえ思っていました。「誰かを支えるために動く」ということが、いつしか私自身を支えてくれていたんです。
結果的に、怪我からの復帰は10月の春高予選には間に合わず、チームも敗退してしまいましたが、その時間があったからこそ気づけたものがとても大きいと感じています。チームメイトの存在の大きさ、感謝の気持ち、そして「支える心」。この経験が、今の私の価値観をつくったといっても過言ではないかもしれません。
「同じ価値観のチームだからシーガルズでプレーしたい」親にも言わずに入団希望を出した。

――怪我をしたことも、経験値に変えたんですね!とはいえ、高校3年生の1年間をリハビリに費やしたことは、プロ入りを考える上で大きなハードルになったと思います。
実は、卒業間際になるまでプロ入りはあまり意識していませんでした。高校卒業が近づいてきた頃、監督との面談で「お前は進路をどうするんだ」と聞かれて、その時に初めて考え始めました。
もちろん、バレーボールを続けたい気持ちは強くありましたが、それ以上に「どんな人たちと、どんな価値観の中でバレーをするか」が自分にとっては大きなテーマでした。怪我をしてコートの外で「支える側」にまわった時間があったからこそ、私は「人としてどう在るか」を大切にしたいと思うようになっていました。
そんなとき、頭に浮かんだのが岡山シーガルズでした。シーガルズは「チームのために」という考えが強い。進路を真剣に考えるタイミングで、あらためてその空気を思い出し、「このチームは、“みんなのために”という考え方が根づいている」「私が怪我を通してようやく辿り着いた価値観が、シーガルズでは最初から当たり前のように息づいている」そう感じて、私もみんなのために頑張りたい、シーガルズでプレーできたらどんなに素敵だろう、と思うようになりました。
そう思ってからは早かったです。自分の口で「シーガルズに入りたいです」と高校の監督に伝えました。自分の心は完全に決まっていたので、親にも相談せず勝手に監督に直談判したと記憶しています(笑)両親はかなり驚いていましたが、技術の高さや環境だけでなく「人としての在り方」を大切にしてくれる場所に行きたかったんです。怪我をして1年間も試合に出ていなかった私ですが、中学・高校とシーガルズの練習には何度も参加させてもらっていたので、チームからも了承してもらい、晴れて入団することになりました。
あらためて考えてみても、当時の私を受け入れてくれたシーガルズの決断は、本当に大きなものだったと感じています。それまでの経緯があったにしろ、怪我から復帰もできていない私を迎え入れてくれるなんて、とんでもないことだと思います。
まさかプロとしてのデビュー戦で復帰するとは思いもしませんでしたが、みんなからもらったありがたい環境でしたので、言葉にできないほど嬉しかったです。
不調な時こそ本質が出る、答え合わせができる。

――念願のシーガルズ入団を果たし、プロの舞台に戻ってこられたわけですが、その後も順調とは限らなかったと思います。苦しい時期や波がある中で、どのように戦ってきたのでしょうか?
もちろんシーガルズに入団してからも、決して順風満帆だったわけではありません。コンディションの波、気持ちの浮き沈み、パフォーマンスの不調。そんな時期は何度もありました。
でも私は、それを「ダメな時期」とは思わないようにしています。むしろ「悪いときの頑張りが一番大事」だと本気で思っています。
調子がいいときは、自然と前向きな気持ちになれるしプレーにも手応えがある。だけど、うまくいかないときや、自分の体が思い通りに動かないときにこそ、その人の姿勢が試される気がしています。しんどいときこそ「じゃあ自分はどうする?」と前向きに考えられるかどうか。そこで手を抜くのか、やれることを地道に続けるのか。自分のことだけ考えてしまうのか、辛くても周りのために動くのか、そういうところに、自分の本質が出ると思いますし、私はそういうときにこそ「やってきたことの答え合わせができる」と感じています。
こういった考えで戦い続けられるのは、チームメイトをはじめ、スタッフや監督のおかげだと心から思っています。
シーガルズのみんなと過ごしているおかげで「うまくいかない時期の努力こそ、自分を育ててくれる」と思うようになりましたし、日々の心がけがコートに出るということも実感しました。私は周りからどう見られるのが正解か、何をしなきゃいけないのかと考えるようになりました。それほどまでに献身的な心を育ててくれたのは紛れもなくシーガルズというチームだと思います。
「チームのために」がみんなの口から自然とでてくる環境がシーガルズにはあります。「誰かのためにこそ頑張れる」という素晴らしい場所で、まだまだ私はバレーボールを続けたいと思っています。
本記事は2025年7月に実施したインタビューに基づくものです。

岡山シーガルズ 髙柳有里選手
中学生にしてサマーリーグに出場し、プロの舞台を経験。
2017年、アジアユース・世界ユースに出場。