フカボリインタビュー
僕はチャレンジ以外は選ばない。──デアルマス アライン、日本から世界へと飛び立つ
16歳の少年がたどり着いたのは異国の地・日本。
進学先はバレーボール無名校だった。誰もが不安や孤独に苛まれる環境の中、彼は常に前を向き続けた。
やがて日本のプロリーグで頭角を現し、日本国籍も取得。今や代表を目指す存在へと成長した。
夢を追いかけてキューバから日本へやってきた一人の少年が、どのようにして「日本のトッププレーヤー」へと成長していったのか。その軌跡を辿ります。

夢を追って日本へ――16歳の決断

――バレーボールとの出会い、そして16歳で来日するまでのことを教えてください。
バレーボールを始めたのは14歳のときです。最初はサッカーや野球など、いろいろなスポーツに触れていましたが、プレーしていて一番楽しく、自然と夢中になれたのがバレーボールでした。
そして16歳のとき宮崎県の都城東高校の先生から「日本でプロを目指したらどうか」と誘われ、日本に行くチャンスをもらいました。最初に話を聞いたときは驚きましたが、新しい環境で自分がどこまでできるか試してみたいと思い、挑戦する気持ちが自然と湧いてきました。両親はとても心配していましたが、僕は12歳から家族と離れて寮で暮らしている期間があったので、一人で生活することにはある程度慣れていました。不安よりも前向きな気持ちの方が強かったです。そんな僕の姿勢を見て「あなたが決めたことなら」と両親も最後は背中を押してくれました。
でも、実際に日本に来てからは、言葉の壁がものすごく高くて、想像以上に大変でした。僕はスペイン語しか話せず、英語もまともに話せない。そして周囲にスペイン語を話す人も、英語を話す人もほとんどいなかった。
今のようにスマートフォンの翻訳機能も充実していなかったので、寮でも学校でも誰とも会話ができず、学校の授業も最初は全くついていけませんでした。
――どのようにして周りとコミュニケーションをとっていたのでしょうか。
インターネットの動画や映画などを見ながら、まずは少しずつ英語を覚えました。英語だと、日本でも多少は伝わる単語が多いので、スムーズとはいかないまでもなんとか伝わるという感じでした。すべて身振り手振りを交えてなんとかメッセージを伝えるという感じです。
最初はなんて大変なんだとは思いましたが「乗り越えられるか勝負だな」というゲームのような感覚をずっと持っていたので、途中からは面白くなってきました。どうやったら伝わるのか、どうやったら信頼してもらえるのか、そんなことをずっと考えながら毎日を過ごしていました。もちろん16歳ですから、孤独や寂しさはありましたよ。でも、心が折れることはありませんでした。「悲しんでも何も変わらない。落ち込んでいる時間があるなら、目の前のことにチャレンジしよう」と常に考えていましたね。
たった4人から始まった全国への挑戦――バレー無名校からインターハイへ

――バレー部に入ってからはどうでしたか?
さらに大変でした(笑)
体育館に行ってメンバーと合流すると、部員はたったの4人。当然、試合も組めませんし、練習も形にならない状態でした。
かなり驚きましたが、だからといって落ち込むわけではなくて、むしろ「どうすればチームが成り立つか」をすぐに考えました。
公式戦にどうしても出たかったので、最初の1年目はとにかく人数を集めることを最優先しました。バレーボール経験がなくても、背が高い同級生をみつけたら「練習しなくてもいいから、試合だけでも出てくれないか」とお願いしてまわりました。ルールを知らない人もいたので「ボールが来たら体のどこかにボールを当ててくれたらいい」「とにかくボールを落とさないで」と、ひとりずつ声をかけて、なんとか試合を成立させました。毎試合のように助っ人を探し続ける日々が続き、試合ではまったく勝てないまま1年生を終えることになります。
2年生になり、正式な部員が増えて11名になりました。「やっと普通に試合ができる!」と感じてとても嬉しかったことを覚えています。助っ人を呼ぶ必要もなくなって、そこからはどんどん勝てるようになり、そのメンバーで3年時にはインターハイにまでいきました。
インターハイではすぐ負けてしまいましたが、全国の舞台に立てたことが大きな意味を持っていると感じました。漫画みたいなストーリーだと言われることもあるけれど、実際は本当に大変でした。簡単なことなんてひとつもなかった。でも、それだけに達成感も大きく、自分でも「インターハイにまで行けたなんて本当にすごい!」と今でも思っています。
次のチャレンジがまた見つかった――サントリー入団と“日本で生きる”覚悟

――そこからサントリーサンバーズ大阪(当時サントリーサンバーズ)に入団。どのような経緯だったのでしょう?
高校卒業を前に、大学チームとプロチームからいくつかのオファーをもらいました。まだ日本語も思うようには話せなかったし、漢字も苦手なので「大学に行っても勉強がついていけないだろうな」と感じていました。
そこで自分にとって意味のあるチャレンジはなんだろうと改めて考え「バレーボールで生活できるチャンスがあるならやってみよう」と、サントリーサンバーズへの入団を決意しました。そもそもプロになるために日本に来ていたので「チャレンジするなら早いほうがいい」とも思いましたし、プロのバレーボール選手になるというひとつの夢が叶うことで、「次の目標はプロでの活躍だ」とすぐに気持ちが切り替わっていました。
サンバーズに加入してからは、年上の選手が多かったので、チームに馴染むためにあえてフランクな言葉遣いで関わるようにしました。みんなに笑顔になってもらうためにわざとそうしたんです。
サンバーズの先輩たちは、みんなフレンドリーでよく笑ってくれました。だからチームに馴染むのは意外とスムーズで、毎日楽しく過ごさせてもらったと思います。唯一苦労したのは言葉のテンポ。高校は宮崎だったので、比較的みんなゆっくり喋るんですが、関西弁のスピード感には驚きました。喋るスピードが速すぎて聞き取れなかったです(笑)それでも高校時代に身につけた「身振り手振りだけで伝える」という特技が僕にはあったので、コミュニケーションで困るというのはあまりなかったかもしれません。
そして、入団した時点でチームから「帰化を目指そう」と言ってもらっていました。僕は「自分がこれから生きていく場所は日本なんだ」とすぐに理解しました。
日本人として世界を相手に戦う自分を想像すると、自然と気持ちが高まりました。
プロとして戦っていく覚悟、チームに馴染むためのアクション、帰化という新しい人生の選択、たくさんのチャンスがここにはあって、それだけで心が震えました。
――アライン選手からは底抜けにポジティブな印象を感じますね!
僕は落ち込むことが苦手なんです。落ち込んでいる時間に、物事がうまくいった経験がないからだと思います。
2024-25シーズンのサンバーズには、僕と同じポジションにアレクサンデル・シリフカ選手がいました。彼はポーランド代表で世界レベルの選手。そして髙橋藍選手も同シーズンに加入しました。彼もトッププレーヤーです。
彼らとポジション争いをすることがわかった時は、僕だって当然不安でした。でも不安だと思っていてもバレーボールが上手くなるわけじゃない。
だから練習中は、監督に自分のプレーをアピールし続けました。これも「世界レベルの選手にポジション争いで勝つというチャレンジ」と解釈していました。結果として、個人的にも良い数字を残せたシーズンだったので、この姿勢がサンバーズの優勝にも貢献したんじゃないかと思っています。
世界に見せたい自分がいる──父の言葉と、世界への誓い

――帰化された今、その決断は周囲にどんな影響を与えたと感じていますか?そして、これを機にどんな新たな挑戦に踏み出そうとしているのでしょうか?
帰化への道のりは本当に長いものでした。
その間、チームのスタッフや弁護士、友人たちが、たくさんのアドバイスやサポートをしてくれました。ひとりでは到底たどり着けなかったと思います。2023年の夏に申請してからは、何ヶ月もただひたすら結果を待つ日々でした。そして迎えた2024年2月、一本の電話が鳴り、「合格しましたよ」と告げられたその瞬間、心の底から嬉しさが込み上げてきました。「やっときたか」と、思わず言葉を漏らしていました。
大同生命SVリーグでは外国人選手の人数が制限されていますが、帰化によって自分はその枠から外れ、日本人選手としてプレーできる。それは大きなアドバンテージになります。きっとこれに続いてどんどん帰化選手が増えてくるだろうとも思いますが、こうやってどんどん日本バレーのレベルを押し上げていくことが自分の役割のひとつと思っています。
そして、やっぱり帰化したからには日本代表を目指したい、オリンピックに出たい。もちろん、代表になれるかはわからないし、試合に出られるかどうかもわからない。でも、チャンスがあるならチャレンジしたいという気持ちは強いです。
試合に出る、出ないに関わらず、どんなときもベストを尽くすこと。それはサンバーズに入ってからもずっと意識していることです。ベンチにいるときも、チームの雰囲気を作ることに集中するし、試合に出たときは、自分のスパイクやブロックでチームに勢いを与えたい。そういう存在でいたい。
それは代表活動でも同じで、もし試合に出られるなら、自分のプレーで世界の人たちを驚かせたいという想いがあります。
僕は「チャレンジ」という言葉を大切にしています。それは父から教わった言葉の影響が大きいかもしれません。「もし誰かに笑われてもあなたにはなんの影響もない。むしろ誰かを笑顔にしたならよかったじゃないか」と父は僕に言ったことがありました。だから、僕にとって「失敗」は特に気になることではありません。何もかもチャレンジなんだから失敗するのも当たり前。いくつか成功するのも当たり前。だったらチャレンジした方がいい。ただそれだけです。
だから僕は、これからも「チャレンジ以外は選ばない」。その姿を、世界の舞台で見てもらえる日まで、挑戦し続けます。
本記事は2025年8月に実施したインタビューに基づくものです。

サントリーサンバーズ大阪 デアルマス アライン選手
キューバ出身、189cmのアウトサイドヒッター。
宮崎県・都城東高からプロ入りし、2024年2月に日本国籍取得。現在は日本代表を目指し、大同生命SVリーグで活躍する帰化選手。