変革編第1章路線転換への序章

生命保険市場が急成長する中、将来に向けた課題が明らかに
大同生命の変革前夜となった1960年代は、太平洋戦争の敗戦によって手痛いダメージを負った日本が、ようやく戦後の混乱から抜け出し、世界でも例を見ない高度経済成長を果たした時代です。この急成長を下支えしたのは、人口の急激な増加でした。1945年に7,215万人だった人口は、第一次ベビーブームを経て1960年には9,342万人となり、経済成長に欠かせない労働力が充実。政府は「所得倍増」をスローガンに掲げて全国的に重化学工業化を推進して成長を牽引し、その結果、日本のGDPは年平均10%水準で急伸しました。1964年には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されるなど、新たな時代の到来を告げる話題も多く、日本全体が豊かになっていく暮らしを実感していました。
そして国民一人ひとりの所得が大いに伸びる中で、人々は貯蓄と生活防衛の意識を高め、保険の必要性を認識します。さらにサラリーマンの父と専業主婦の母、子で構成される核家族の増加に伴い、「一家の大黒柱の“もしも”に備えたい」という消費者ニーズも顕著となり、こうしたニーズを取り込む形で生命保険業界は急成長、1968年度末での生命保険世帯加入率は、88%に達しました。
しかし、大同生命はその波に乗ることができずにいました。新契約高は、生命保険業界全体で1960年度の1兆9,133億円から1970年度の19兆1,511億円へと、10年間で約10倍となり、業界全体の保有契約高も10倍となりますが、大同生命の新契約高は同期間で約5倍、保有契約高も約6倍にとどまっています。成長速度が他社に及ばず、業界内シェアは1960年度の2.4%から1965年度には2.0%に、さらに1970年度には1.0%へと縮小していきました。
このように大きな遅れをとったのは、大同生命の対象顧客や販売商品、販売方法が、他の大手生命保険会社とほとんど同じであったことが要因でした。
1959年当時、大同生命の業界順位は20社中15位まで落ち込んでいました。他社と同じような商品、同じような販売手法であれば、生命保険加入を考える消費者は、安心・安定のイメージがある大手を選ぶことが多く、規模の大きな生命保険会社が有利になります。こうして1960年代、業界内での規模の差はさらに拡大していくのでした。
この状況に対し、もちろん大同生命も問題意識を持ち対応策を講じました。1963年に発表された「経営基本指針」では「経営の近代化」というテーマが打ち出され、大同生命として初めての長期経営計画(「5ヵ年計画」)を策定し、新たな成長戦略の第一歩としました。
続いて、1965年に「教育訓練基本要綱」、1967年には「マーケティング基本要綱」を策定し、この二つの方針により、営業職員の販売スキルの向上・均質化とともに、商品開発力の強化をめざしたのです。また業界でもかなり早い段階から電子計算機を本格導入するなど、作業効率向上にも積極的に取り組んでいきました。しかし、このような全社を挙げた努力も、抜本的な打開策とはなりませんでした。
さらに、業界の状況を一変させるような大きな動きが、行政からもたらされます。
保険業界は、戦後の混乱期に行政による保護政策がとられていました。しかし1962年、大蔵省(当時)の保険審議会では幅広い分野についての答申が行われ、それらの趣旨は、「生命保険会社の競争原理の導入と経営効率化の推進を図るべし」というものでした。さらに1968年の大蔵省の通達では、経営効率化を推し進めるべく、責任準備金を「平準純保険料式」で積み立てることで、企業体質の健全化・強化を各生命保険会社に求めたのです。当時、養老保険を主力としていた大同生命にとって、契約後一定期間の積立負担を抑えた「チルメル式」から積立負担が増加する「平準純保険料式」に変更するには、資金がとうてい足りない状況でした。
つまり、他の生命保険会社と同様の商品・営業スタイルのままでは、未来に向けた持続的な成長は見込めない。そのような危機感から、経営を効率化するだけではなく、「新たなビジネスモデルへの転換」を真剣に模索する意識が、社内に芽生えはじめたのです。
定期保険に可能性を見出す
大同生命にとって大きな転機が訪れたのは、1969年12月から1970年にかけてでした。
当時の中期経営計画(1968〜1971年度)では、1971年度末までに「チルメル式の期間短縮」(15年から10年)と「保有契約高1兆円」を目標に設定しました。1969年12月時点でチルメル式の期間短縮にめどが立ったこともあり、経営陣は計画の1年前倒しに踏み切ろうとします。ところが課題となったのは「保有契約高1兆円」です。計画を立てた1966年度末の保有契約高は約4,400億円。そこから1969年12月までの3年弱で約7,500億円まで積み上げていたものの、あと1年3カ月で残り2,500億円を積み上げなければならないこととなり、営業部門は頭を抱えます。さらに業界シェアの低下も歯止めがかからず、大同生命を成長軌道に乗せる抜本的な方策が求められました。
1969年12月の幹部会議。そこで出された意見が、「定期保険の販売に注力してはどうか」というものでした。大手も含めて日本ではほとんど浸透していなかった定期保険に活路を見出すべきか否か、激しい議論が繰り広げられました。
定期保険の販売に注力しようとする根拠は、「主力としてきた養老保険は過当競争になっているが、定期保険であれば低廉な保険料でより大きな保障を提供できる。しかも大同生命の定期保険販売高は、業界トップの会社とほぼ同額であることから、この領域は市場開拓のポテンシャルがある」というものでした。また、定期保険の責任準備金積立はすでに平準純保険料式であり、その保有占有率が高まれば、行政が求める平準純保険料式への移行が早期に可能となることが見込まれました。さらには、米国では定期保険が年々増加しており、いずれ日本も同じトレンドをたどるはずと考えられたのです。
これに対し、「掛け捨ての定期保険が売れるはずがない」「保険料の安い定期保険は手数料が少なく、販売する意欲がおきない」など、社内の各方面から否定的な声が上がりました。
定期保険の可能性に注目し、「経営課題解決の突破口にすべき」と主張する定期保険推進派。一方、定期保険の現状から「売れて初めて得られるメリット。売れる見込みがなければ空論だ」と主張する反対派。お互いの主張は平行線でしたが、定期保険推進派は少数で、多くの役職員は反対派だったようです。しかし翌1970年1月、期中の人事異動で、定期保険販売のポテンシャルを確認すべく、推進派の人物が立て続けに営業部門の要職に任命されたことで、定期保険販売の道が開かれます。こうして「定期保険の販売強化」は、営業方針として動き始めることになりました。これが、大同生命で「第2の創業」と呼ぶ、革新の道のスタートだったのです。
定期保険の販売を強化するにあたり、大同生命は「わかりやすい商品」を「団体を通して大量に販売」する「マス・セールス方式」と呼ばれる方法に着目しました。それまでに開発した「新経営者保険」などの集団定期保険と団体定期保険に商品を絞り込み、多くの個人が属する団体組織を「基盤」とし、定期保険を大量販売できる市場を開拓していくことを、具体的な営業方針としたのです。
こうした取引先の開拓で、大同生命は重要な知見を得ました。ある団体の保険料収納では、契約者が山間部に多いため集金が難しいなどのいくつかの課題があり、契約の継続率が大きな問題となっていました。しかし、ある支社では地元地銀の協力を得て保険料を口座振替することでこの問題をクリアし、高い継続率を保つことに成功していました。これが、後に「全国法人会総連合」との提携の際にポイントとなる「保険料口座振替ネット」にもつながっていきます。また、他の保険商品では、それまで継続訪問や対面販売が基本だった保険営業のスタイルから一線を画し、会員向けにダイレクトメール(DM)を送ることで、大きな成果を挙げることになりました。
これらの契約を足がかりに定期保険の新契約高は目に見えて増加し、ついに1970年11月、1969年末に経営計画を1年前倒しした時点では達成不可能とも考えられた目標「保有契約高1兆円」をみごとに達成。定期保険が、日本国内の生命保険市場で大きな可能性を持つことを確信したのでした。
この経験と意志が、「第2の創業」の起爆剤となった「経営者大型総合保障制度」へとつながっていくのです。