変革編第4章本社移転とニュー・ダイドウ運動

狙いは従業員の意識改革
いったん時代は遡りますが、定期保険路線への戦略転換、「経営者大型総合保障制度」の受託、担当エリアで個人向けの営業・集金を行うデビット職員組織の収束というビジネスモデルの大改革が進められていた1970年代前半。一方で組織文化を大きく変えようとする、もう一つの変革が進められていました。それが、旧肥後橋本社の移転と、これに端を発する大規模な業務改革プロジェクトです。
もともと本社の移転は、1963年から計画されていたもので、「経営の近代化」というスローガンと実行策、そして「新しい本社」というビジョンを示すことで、会社を変えていこうというものでした。しかし、当時打ち出した施策はなかなか思い通りに行かず、1960年代、業界内での存在感が徐々に低下していた大同生命の経営は、本社移転計画にすぐに着手できるような状況ではありませんでした。
そんな「幻の本社移転計画」が再び本格的に検討され始めたのは、計画の構想から7年後の1970年。その頃には10年チルメル方式で決算ができるまでに経営状況が改善し、次の投資を考える余裕が生まれていました。そこで、大阪市総合計画基本構想に基づく「吹田市江坂への本社移転」を発表します。本社移転の理由として、「築40年以上過ぎた肥後橋本社ビルの老朽化」「職場環境の刷新」「機械設備の近代化と拡充」の3点を挙げました。
これらを見ると、本社移転は建物や機器といった「ハード面の刷新」が主目的のように見受けられますが、本当の狙いは「社員の意識改革」にありました。折しも1970年は、年初より定期保険路線への転換を始めたところであり、そこに新本社建設や設備投資を掛け合わせることで、会社全体で「新しい大同生命」へと生まれ変わろうと考えたのです。
そこで、創業70周年である1972年を「新生大同生命進発の年」と定め、「ニュー・ダイドウ運動」を展開。「新本社完成時に保有契約高2兆円を達成すること」と「新本社ビルにふさわしい企業行動をめざすこと」という二つの目標を掲げます。前者は、1970年11月に達成した保有契約高1兆円を、新本社が竣工する1972年10月までの約2年間で倍増させるという目標です。目標達成には、当時進めていた定期保険路線を何としても成功させる必要がありました。一方後者については、企業行動を変える手段として、全社的な業務改革を推進。1972年1月から翌年3月の15カ月間を4つの期間に区切り、各期間に設定したテーマごとに若手社員を含めたプロジェクトチームを結成し、短期間で迅速に多くの領域で業務改革をめざしました。具体的なテーマとして、1972年1〜3月は「事務の簡素化・迅速化」、4〜6月は「ビジネスマナーの革新」、7〜9月は「顧客奉仕に徹して2兆円」、10〜翌3月は「新本社完成!新体制づくりへ総力を結集しよう」に決定。また期間中、全従業員から業務改善提案を募りました。
変化と挑戦に対する勇気が「新生大同」への自信を創り出す
様々なハードルを乗り越えるべくスタートしたニュー・ダイドウ運動でしたが、結果としてこの活動は多くの成果を残すこととなりました。
期間中に募った業務改善提案への応募総数は433件にのぼり、数多くの意見が寄せられたことからも、変革に対する従業員の意識の高さがうかがえます。新たな大同生命を生み出すための基礎が、会社の内部に着実に構築されていったのです。
そして迎えた1972年10月。江坂に誕生した新本社は、「人間と自然の調和」と「地域社会への奉仕」をコンセプトとしたモダンな空間となっており、マスコミの話題にもなりました。最大の特徴は、5階部分まで吹き抜けの42,500m³の大空間の周辺に、インテリア・グリーンをモチーフに高木、低木、地被植物、つる性植物など約3,000本を密植した、「ビルの中の森」と称されるスペースでした。
また、新本社ビルのコーポレートカラーを新たに「緑」に決定し、社内公募により、女性職員の新しいユニフォームや、シンボルマーク「緑陰のやすらぎ」、バッジ「夢と愛と革新」、コーポレートメッセージ「緑と愛と幸せを......大同生命」を決定。「イメージアップ作戦」と名付けられたこれら一連の取組みを社報でも大きく取り上げ、役職員はみな「大きく変わる大同生命」を改めて実感しました。
商品については、1971年に発売した「経営者大型総合保障制度」の好業績を背景に、1974年に最高保障額を3億円に引き上げ。1976年には「社員保障プラン」を新設、さらに「入院特約」の創設など、中小企業のニーズに応じて商品内容を充実させていきました。営業組織面でも、1973年にはデビット組織を収束し、マーケットを中小企業に絞り込み、税理士団体や商工会議所等のチャネルを構築します。また、営業面では、一人で複数のエリア・商品を扱える営業職員の採用を推進する一方、デビット職員に代わり「少数精鋭の営業職員」に知識・経験値を集約。効率的な営業体制を構築します。また、1972年10月には江坂新本社と肥後橋の大阪支社を、翌年4月には江坂新本社と東京総局を結ぶ「インハウス・オンライン」が開通。これは保険料収納・保険金支払・契約サービス業務でホストと直結した端末機で担当課が直接データ入力し、即座に必要な回答を得る仕組みです。「インハウス・オンライン」の整備により、解約や契約者貸付等の保全業務、死亡保険金・給付金等の支払業務、さらに契約内容や変更履歴の照会等がオンラインで行えるようになり、業務効率が格段に向上、作業ミスの大幅な削減にもつながりました。こうして、変革に向けた施策を立て続けに実施することで成長を加速させるとともに、「新たな大同生命像」を社内外に一気に確立していきました。
1969年12月の営業部門会議での議論を経て定期保険路線への方向転換を決定し、そこから全法連やTKC全国会との出会いを経て実現した大同生命の「第2の創業」は、生命保険業界における大同生命の存在感を大いに高めることとなりました。それは数字にも表れ、新契約高と保有契約高のシェアが、いずれも1970年代の間に1%弱から3%まで拡大しています。他の生命保険会社がまだ開拓していない市場にいち早く進出し、わずか数年でビジネスモデルを完成させたことが、現在につながる優位性を確保できた要因だと言えます。
現在の大同生命を形づくる「中小企業を想う心」と「提携団体との絆」。これは、「第2の創業」から半世紀を経た今も変わらない、「変革の証」なのです。