通史編1902-1945創業・躍進の時代
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大同生命の創業

日本に生命保険事業が誕生したのは今から約140年前。近代日本の針路が定まったころです。日本初の本格的な生命保険会社である明治生命(現在の明治安田生命)が1881(明治14)年に設立されると、その後生命保険が少しずつ認知されるようになり、生命保険会社の設立ブームが始まります。
大同生命の前身となる会社もこの時期に誕生しました。一つは1895年に名古屋で真宗生命として創業し、1899年に加島屋が経営権を取得した朝日生命(現在の朝日生命とは異なる)。そして、1896年に東京で創業した護国生命。さらにもう一つは、1898年に北海道の小樽で創業した北海生命です。各社ともに、創業当初は順調なスタートを切ったものの、市場の競争が激しくなる中で、他の生命保険会社の攻勢に押されて徐々に経営状況が悪化。さらに1900年末から翌年にかけて、新興会社が乱立していた生命保険業界に対して政府が厳しい指導を行い、10数社に対して会社の整理・解散を命じるなど、混乱期を迎えました。これらの状況を鑑みて3社はそれぞれ「単独では会社を存続できない」と判断。朝日生命を軸に合併することを決定します。合併に際しては、加島銀行の理事であった中川小十郎や、朝日生命の要職にあった橋本篤などが、3社の合併のために奔走しました。こうして1902年7月15日、大同生命が誕生。初代社長には、朝日生命の社長であった広岡久右衛門正秋が就任し、本社は朝日生命本社のあった大阪市東区大川町(現在の中央区北浜)に置かれました。大同生命の創業は、日本の生命保険黎明期における、合併の数少ない成功例とされています。
生命保険の黎明期
日本における生命保険の普及に貢献した代表的な人物は、福澤諭吉です。彼は著書『西洋旅案内』の中で保険を紹介し、門下生から生命保険事業の創業者を多数輩出しました。当時、世間の生命保険に対する理解はまだまだ浅く、「生命保険会社は寿命を保証する会社」や「販売員は寿命鑑定人である」といった誤解が多くありました。そのような状況の中でも、福澤の先見性に刺激され、進取の気風を持った事業家たちが生命保険市場を開拓し、地道に事業を拡大していったのです。こうして先陣を切った各社の努力が実り、1891年頃から新契約高が急増すると、日本各地で生命保険会社が創設され、ビジネスの一大ブームが起こりました。
生命保険会社の模倣乱設時代
1893年から1897年にかけて、小さな生命保険会社や保険類似会社(積立方式ではなく賦課方式で保険料を算出する)の創設が続きました。「模倣乱設時代」と呼ばれ、このわずか5年の間に新設された生命保険会社は26社、類似保険会社は100社にものぼりました。しかし生命保険会社の乱立により競争が激化すると、長期的・持続的な展望のない保険商品を販売したり、契約者を欺くなど、一時的な利益のみを追求する会社が現れ、業界のモラル低下が目立つようになりました。保険加入者の利益が損なわれると同時に、生命保険に対する社会的信用が失墜する深刻な事態となったため、保険業を管轄する農商務省は1900年末から実態調査を実施。そこで経営内容に問題があると判断した会社に対して、整理・解散を命じました。これを機に中小生保会社の間では再編の動きが現れました。
大同生命の前身 〜 朝日生命
大同生命の前身となった3社はどのような会社だったのでしょうか。まず朝日生命は、当時200万人と言われた浄土真宗の門徒を加入対象とした真宗生命として1895年に名古屋で開業。当初の業績は好調だったものの、すぐに激しい募集競争に巻き込まれて経営が悪化。そこで経営陣は、本願寺の門徒総代格だった加島屋広岡家に経営支援を依頼します。依頼を受けた広岡久右衛門正秋や広岡浅子は、生命保険が社会公益のための事業であることから支援を決断。浅子指揮の下で中川小十郎が経営権取得の交渉を担い、1899年には真宗生命の経営権を取得。加島銀行の頭取でもあった久右衛門正秋が取締役社長に就任しました。その後、本社を京都に移すとともに、一つの宗門を冠した社名を見直し朝日生命と改称。様々な経営改革を断行した結果、新契約高が急増しました。しかし、1900年の農商務省による検査や業界再編の流れを受け、朝日生命では将来の躍進のため、他社との合併を模索することになりました。
大同生命の前身 〜 護国生命と北海生命
護国生命も朝日生命と同様に、東京で創業した直後は好スタートを切りますが、設立から5年後に農商務省から資産内容の欠陥を指摘されたことで、業績が悪化。新契約高と同水準の解約が2年連続で発生し、独力での再建が困難となってしまいました。また、北海道を営業基盤とする北海生命は、創業以来、毎年赤字が累積し、1901年度には破綻寸前にまで追い込まれています。それぞれこのような事情により、激化する生命保険市場で生き残り、新たな成長路線を歩んでいくため、他社との合併を検討しはじめたのでした。
シャメイ ダイドウト キメタ
朝日生命は1901年10月ごろから合併相手を探しはじめました。いくつかの会社に打診しましたが、ほどなく護国生命との交渉に一本化。さらに北海生命とも同時並行で交渉を行い、年内には三社の担当者間で合意がなされました。しかしそこから、合併条件に関する意見の食い違いや従業員の反対もあり、交渉は難航します。その最前線にいた中川小十郎・橋本篤らの間で電報や書簡が激しく行き来する中、1902年3月15日に要職者の間で協定書が取り交わされ、朝日・護国・北海による三社合併が決定。同年7月15日に創立総会が開催され、新会社として大同生命が創業しました。当時の協定書には、合併による社名は「東洋生命」(欄外で「東陽」と修正)と記載されています。別の協定書草稿には「日国生命」と書かれており、この時点では合併後の社名が正式に決まっていませんでした。その後、中川が発した電報から、3月20日に社名が「大同生命」と決まったことが明らかになりました。この社名の由来について、「大同生命70年史」では「小異を捨てて大同につく」(少しぐらいの意見の違いはあっても、大勢の支持する意見に従う)であるとされています。また、のちの社報で広岡恵三(第二代社長)は、「大同は『漢書』や『荘子』に登場する『無限の包容力』を意味する言葉である」とも語っています。
日本で初めて起きた「生命保険業界の再編」という激動期に、本拠地はもとより、経営方針も社風も異なる3社が1つの会社になるには、数え切れないほどの紆余曲折がありました。そうした中で合併を成し遂げた想いは、協定書に記載されているこの一文に込められています。「内外の情勢に鑑み、分立競争の弊を避け、経費を省き、基礎を強固にし、被保険者並びに会社の利益を保護増進せんがために、ここに三会社の合併を協定したり。」大同生命の社是である「加入者本位」「堅実経営」は、この一文に基づいています。