通史編1902-1945創業・躍進の時代
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1902-1929
創業初期の隆盛

大同生命が創業時に掲げた社是は、「加入者本位」と「堅実経営」です。初期の大同生命は、この創業の精神にふさわしい経営で、有力生保へと成長していきました。
創業当初の保有契約高は3社を合わせて946万円。この額は当時の生命保険業界の中でも高い水準にあり、有力会社の出現として一躍注目を集めました。その後、前評判にたがわぬ成長を遂げた大同生命は、1911年度に、当時の生保32社中6位となる保有契約高4,573万円を達成。1913年1月時点で、7支店・1支部・3出張所・約1,000店の代理店を擁する規模となっていました。そして次に掲げた目標は「保有契約高1億円」。これを早期に実現する方策の一つとして代理店組織を強化すべく、1914年に「代理店募集制度」を設立しました。こういった取り組みや、第一次世界大戦後の好景気の影響もあり、1919年度には早々に保有契約高1億円を達成。さらに、1925年に旧肥後橋本社ビルを建設し、1927年には大阪に「大同病院(現・大阪中央病院)」を開設するなど、業界内でも際立った存在感を示しました。しかし1927年に昭和金融恐慌が起こると、加島屋広岡家が経営する加島銀行が破綻。これをきっかけに、経営の勢いに徐々に陰りが見えるようになります。
大同生命の船出
1902年、大同生命創業時の従業員は78人。大阪本社のほか、東京・京都の支店と小樽の出張所、943の代理店を有していました。3社合併により有力会社として注目を集めた大同生命ですが、実は創業直後は本・支社の整理統合に追われ、業績は決して良好ではありませんでした。1904年に日露戦争が開戦した際、戦争による保険金支払の増加を想定し、成人男性の多くを保険加入の対象外としたことも保険加入者が伸び悩む要因となります。しかし、1905年の日露戦争勝利により日本経済が活況を呈すると、新契約高・保有契約高ともに急成長。創業4年目にして大同生命はさらなる成長ステージに向かいました。
第二代社長・広岡恵三の社長就任
創業間もない大同生命が有力生命保険会社に成長したのは、第二代社長・広岡恵三の手腕によるものが大きかったと考えられています。一柳子爵家の次男として生まれ、広岡浅子の娘婿として入社した恵三は、1906年に取締役に就任すると早速リーダーシップを発揮。前年度末の保有契約高(1,299万円)のほぼ同額となる1,109万円もの新契約高を達成します。その後も順調に経営を成長軌道に乗せると、1909年には社長に就任し、引き続き経営の舵取りを担いました。この時代の「社長」といえば一種の名誉職であり、一般の会社では経営に関与しないケースも多かったため、自ら会社の経営方針を定め、指揮を執る恵三の姿は当時の従業員に画期的に映ったと言います。恵三は、大同生命の株式を加島屋広岡家に集中させることで、利益配分を株主に薄く、保険契約者に手厚くする方策をとったり、全国を奔走し、従業員・代理店のモチベーション向上に努めるなど、積極的な施策展開を通じて大同生命の急成長を牽引しました。
社是の実践
大同生命の経営において、社是である「加入者本位」「堅実経営」を前面に押し出したのも恵三でした。当時のパンフレットによると、「加入者本位」とは安い保険料で充実した保障を提供すること、「堅実経営」とは保険の引受基準を精緻にすることで他社よりも加入者の死亡率を低く抑えることです。利益の大部分を保険契約者や代理店、従業員に分配する一方で、損失があれば株主が負担する「混合主義」を実践し、株式会社と相互会社の長所を兼ね備えた経営を実践。この背景には、創業家である加島屋広岡家の「生命保険会社の経営は、一般の営利事業とは異なり、営利以外の重要な使命を持っている。すなわち保険加入者の利益を擁護することであり、広義に言えば国家公共に尽くすことである」という信念がありました。1910年代に入ると第一次世界大戦による景気拡大に伴って会社の規模も大きくなり、増資を行う生命保険会社も少なくありませんでしたが、大同生命は増資を行わず、社是を徹底し続けました。
成長を加速する施策展開
1922年、創業20周年を迎えた大同生命は、さらなる飛躍に向けて様々な施策を展開しました。1923年には本社に「募集課」を新設し、採用した営業職員の教育訓練を開始。営業の基礎固めを行います。また保険募集の一環として、当時の最新メディアであり、「活動写真」と呼ばれていた映画による広告宣伝を実施。イベントは1万人を超える来場者でにぎわい、1928年には営業部内に「活動写真隊」を設けるほど有力な施策となりました。他にも、保険加入者の健康増進と一般国民の保健衛生に貢献するため、1926年に「大同生命保健会」を設立、その主要事業として1927年に現在の大阪市北区曽根崎に「大同病院」を開設するなど、成長の勢いをさらに加速させていきました。
旧肥後橋本社ビルの完成
江戸時代に豪商・加島屋が本宅を構えた肥後橋(大阪市西区)。この地に1925年に完成した旧肥後橋本社ビルを設計したのは、米国出身のウィリアム・メレル・ヴォーリズで、日本国内で1,200を超える建築物を手がけた人物とされています。ヴォーリズは広岡恵三の妹である一柳満喜子と結婚し、当時の大同生命の本・支社11棟すべての設計・改築を担いました。旧肥後橋本社ビルは1922年に建設を開始。翌年の関東大震災で建設を中断せざるを得ない状況となりましたが、その間に耐震・耐火・耐水を強化し、建築費300万円(1924年開場の阪神甲子園球場の総工費が250万円)を投じて完成したのは、地上8階、地下1階建ての威風堂々としたネオ・ゴシック建築のビルでした。当時の建築基準法の上限である百尺(約30メートル)の高さを誇る高層建築であり、「ダイビル」や「堂島ビル」と並んで大阪を代表する「百尺ビル」として、商都大阪のランドマークになりました。
契約者配当の方針変更
大同生命は、創業以来、契約者配当を低く抑えることで保険料を安くする「低保険料・低配当型」の養老保険を主力としてきました。しかし生命保険業界では、1920年前後から「高保険料・高配当型」の商品が人気を博すようになります。大同生命においても、同種商品である「新種特別養老保険」を1926年に発売。当初は販売が低迷していたものの、1928年に配当率を大きく引き上げた結果、新契約高が前年度の約6倍となりました。この配当政策は、同じ年に発表された加島銀行の一時整理案による大同生命の信用不安を解消するために実施したものです。一方で従来型の「普通養老保険」の新契約高は急減し、これを機に、販売商品の大幅な方向転換を図ることとなりました。