通史編1625-1929大同生命の源流
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1625-1868
商都大坂の豪商・加島屋

大同生命の源流は、江戸初期に創業し隆盛を極めた「加島屋」という商家です。1902年に、朝日生命・護国生命・北海生命の3社の合併により大同生命が誕生しますが、その合併の中心となったのが、朝日生命を経営していた加島屋広岡家でした。大同生命が創業した1902年から、1947年に相互会社へと移行するまでの45年間、大同生命はこの加島屋広岡家をオーナーとして事業を営んできたのです。
加島屋の起こりは1625年だと伝わっています。摂津国川辺郡東難波村(現在の兵庫県尼崎市東難波町)の広岡九兵衛家に生まれた冨政が、大坂の加島屋五兵衛家に奉公の後、のれん分けを許されて「加島屋久右衛門家」(以下「加島屋」)を興しました。当初は御堂前(現在の本願寺津村別院(大阪市中央区)近辺)で精米業を営んでいましたが、しばらくして現在の大同生命本社が建つ地(現在の大阪市西区江戸堀)に店を移転。この地が、加島屋から現在の大同生命に至るまでの本拠となっています。この頃、世界初とも言われる先物取引市場を生み出した堂島米市場の発展とあわせて、加島屋も事業規模を拡大していきました。1731年に堂島米市場が幕府から公認された時には、四代目加島屋久右衛門・吉信が堂島米市場の取締役の一人に名を連ねたことからも、当時の加島屋の存在の大きさがわかります。また米の売買を通じて、大名の蔵屋敷へ出入りするようになっていた加島屋は、18世紀半ば以降、大名に資金を融通する「大名貸し」にビジネスを特化させていき、資産をさらに増加させました。業容の拡大とあわせて商人としての社会的地位も高まり、御用金と呼ばれる幕府の資金調達に最も大きな額で応じたり、幕府から米価対策の相談を受けたりする豪商へと成長します。当時の大坂、そして全国の商人としての社会的地位や事業規模がわかる長者番付において、加島屋は鴻池と並び最高位に位置し、その地位は幕末まで変わりませんでした。加島屋はまさに、「諸国の台所」と称された経済都市・大坂を代表する豪商だったのです。
堂島米市場
加島屋の発展を語るうえで欠かせないのが、1697年頃、加島屋のすぐ近くの堂島で開かれた「堂島米市場」です。大名の領地が米の収穫量(石高)で決められ、武士の俸給も米(現物)で支払われていた江戸時代、大坂には西日本・北日本から多くの米が集まり、「米切手」という証券を発行して活発な取引が行われました。その売買の中心となった場所が堂島米市場です。精米業から身を起こした加島屋は、堂島米市場の米仲買として活躍。長州藩に残されていた文書では「加島屋久右衛門米の巧者につき」と言われるほど、堂島の米仲買取引に精通した商家へと成長します。その結果、1731年に堂島米市場が幕府から正式に公認された時、その初代取締役の一人として四代目加島屋久右衛門・吉信が任命されました。
大名貸し
加島屋をさらに発展させたビジネス、それが「大名貸し」と呼ばれる、全国諸藩を対象とした金融業務です。加島屋は長州藩、中津藩、福岡藩をはじめ全国延べ150以上の藩・幕府機関と取引がありました。加島屋の大名貸しは、①分散(特定の藩に限定せず、多くの藩に融資する)、②担保(年貢米に限らず、特産品など幅広い品目を担保とする)、③館入(長期間の取引関係により、融資のみならず財政指導を行う立場の商人で、現在のメインバンクと同様の役割)といった独自の戦略を複合的に採用し、貸し倒れのリスクを回避。特に「館入」については、約30年にわたり年間の収入と支出など財務情報を開示させ、返済能力を長期にわたって把握していた中津藩のような事例もありました。こうしてリスクが高いと言われた大名貸しを、安定かつ確実な収益が見込めるビジネスへと変えることに成功した加島屋は、コメ経済から貨幣経済へと移行しつつあった江戸時代の経済イノベーションを巧みに取り入れ、豪商としての地位を確かなものにしたのです。
“堅実経営”と“変革”の源流
加島屋の成長のきっかけとなったのは、「先物取引」という経済の大イノベーションに関わる人々を対象とした金融業。しかし軌道に乗るまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。「加島屋中興の祖」と言われる四代目加島屋久右衛門・吉信は、遺言書でこう述べています。
「倹約・質素を第一に身を引き締めて営業しつづけたところ、商売が徐々に繁栄、米取り扱いの手数料もあり、ことのほか繁昌した」。また吉信は、次世代に「何よりも堂島米市場での自分商い(自分のお金で米切手の売り買いをすること)はしてはならない」と言い残しています。「リスクの高い相場には手出しせず、倹約・質素を第一に商売せよ」と伝えておきたかったのでしょう。堅実を旨としつつ、リスクを減らす手法を講じることで、変革を実現する。社是として「堅実経営」を掲げ、時代の変化を先取りして変革を続けてきた現在の大同生命のDNAが、このとき生まれたと言えるかもしれません。
「加島屋久右衛門」の“発見”
加島屋は江戸時代の大坂を代表する豪商でしたが、その実像は長年明らかになりませんでした。その加島屋に脚光が当たったのは、21世紀に入ってからのことです。大同生命は創業110周年の記念事業として、所蔵していた歴史資料約2,500点を、学術研究に活用するために大阪大学に寄託しました(2011年)。次いで、広岡浅子を主人公のモデルとしたテレビドラマ『あさが来た』(NHK)の放送決定(2015年1月)と前後して、広岡家の縁者の屋敷から約1.5万点もの資料が発見されました。このように、21世紀になって次々と加島屋に関する歴史資料が発見され、それにより、大同生命の源流である「加島屋」の実像が明らかになっていったのです。