【通史編】1980-1997 金融自由化、生活破綻の中で | 革新経営の時代 | 大同生命120年史
このページの本文へ移動

通史編1971-2002革新経営の時代

1600

1900

1930

1950

1970

2000

2020

1980-1997

金融自由化、生保破綻の中で

1970年代にビジネスモデルを大きく転換した大同生命は、中小企業定期保険路線をさらに強化し、1980年代以降も業容を拡大します。個人保険の保有契約高は、1979年度末から1997年度末までの18年間で約2.4倍の35兆7,742億円となりました。「中小企業とともに歩む」ための事業基盤をより強固なものにした時代です。

一方、日本経済は安定成長と激しい競争の時代に入ります。その中で自らのアイデンティティを明確にすることで、一歩先を進む企業のあり方を模索。「独自の企業姿勢を明確にし、企業イメージを確立する」ことを目的とした業界初の本格的な「CI(コーポレート・アイデンティティ)計画」をはじめ、様々な施策により「新しい大同生命」を訴求しました。1990年代の中盤には、バブル景気の崩壊を契機とする生命保険会社の経営破綻が続出。多くの生命保険会社が大きな影響を受けましたが、大同生命が受けた影響は限定的でした。一方、事業規模の拡大に伴い、これまで取り組んできた生命保険事業に関連する社会貢献に加えて、大同生命国際文化基金の設立や、障害者スポーツ大会への協賛、「大同生命社会貢献の会」の設立などに取り組んでいきます。そして1987年、大同生命は「中小企業定期保険路線への転換」とともに江坂に移転した本社を、創業の地である肥後橋に戻すことを決定。約60年前に竣工し、長らく親しまれてきたヴォーリズ設計の旧肥後橋本社ビルの建て替えが必要となったためです。新本社ビルは旧本社のデザインやイメージを継承するとともに、遺構も一部活用し、1993年10月に完成しました。その後、1995年1月に阪神・淡路大震災が発生。大同生命は大災害の際、何に対してどのように対応すべきかを学んだのでした。

制度商品の普及・拡大

1980年代、大同生命は定期保険の契約年齢や更新可能範囲を拡大するとともに、医療保障を充実させていきました。また、この間の景気拡大を踏まえ、1987年には「Lタイプ」を発売し、1990年には通算最高保障額を4.2億円に拡大するなど、「経営者大型総合保障制度」の拡充を図りました。1982年に30万件であった加入者は、1989年に40万件を突破しました。「TKC企業防衛制度」も保有契約高ベースで1982年に3兆円、1991年に10兆円を達成しています。会社全体で見ると、1980年度末に約100万件・10兆円であった保有契約は、1990年度末には170万件・27兆円と拡大していきました。

「新しい大同生命」の展開

1970年代、大同生命は家計市場から中小企業市場へと大きく舵を切ったことで、中小企業経営者や提携団体の間で認知される存在となりました。しかしながら、世間一般には必ずしも存在感があるとは言えない状況が続いていました。二桁の経済成長を実現した高度成長期から、4〜5%の安定成長期となり、「成長の争奪」から「シェアの争奪」へと移りつつあった1980年代は、大同生命にとって、まさに自社のアイデンティティを積極的に打ち出すべきタイミングでした。そこで、1987年(創業85周年)に「CI(コーポレート・アイデンティティ)計画」を発表。「中小企業に必要な保障を提供する大同生命」を広く世間一般に理解してもらえるよう、「人間性」「共感」「活力」「信頼性」をイメージ・キーワードとして選定。これらから導き出される基本テーマを「企業には発展を、人には夢を...確かなかたちに共感設計するエキスパート」に決定し、シンボルマークやコーポレートスローガン、コーポレートカラーを展開することとしました。1987年6月には本格的なテレビCMを開始し、新しい企業イメージの浸透と知名度の向上に取り組みました。翌1988年にはイメージソング「未来を語る人が好き」を発表するなど、「新しい大同生命」の姿を打ち出していったのです。

バブル期前後の資産運用

株価と地価の値上がりを背景としたバブル景気は、1990年をピークに崩壊します。生命保険会社に限らず多くの企業は、大きくその影響を受けました。生命保険業界でも、1997年以降に多くの会社が債務超過となり破綻に追い込まれることとなります。その原因は、バブル景気の時代に予定利率の高い貯蓄性商品を販売してきた一方で、バブル崩壊により資産運用の成果が低迷した結果、いわゆる「逆ザヤ」を大きく発生させてしまったためと言われています。破綻に至らなくとも多くの会社が影響を受けたバブル崩壊ですが、大同生命の影響は限定的であったと言えます。その理由の一つは、主力商品である定期保険は貯蓄性(責任準備金の積立水準)がないため、逆ザヤの影響が限定的であったことです。加えて、バブルがピークを迎えようとした時期に、いち早く資産運用ポートフォリオの見直しに着手したことも奏功しました。1990年度末に19.1%あった国内株式への投資を2002年度末までに3.5%まで減らし、代わりに公社債を買い増すことにより、株式の値下がりを回避しつつ公社債の安定的な収益を確保できる資産運用ポートフォリオに変更したのです。これは、運用する資金(保険料)の特性と運用先の特性を合わせること(ALM=資産と負債の総合管理)により、全体として安定的に債務の履行(保険金の支払)を行うという考えに基づくものでした。破綻した会社を含む多くの生命保険会社でそうであったように、大同生命でも「親密先の株式を売却すれば、契約業績に影響がある」といった反対意見も上がりました。しかし、最終的に社内の理解を得て株式売却に踏み切れたのは、社是に掲げた「堅実経営」という原点があったからと言えるでしょう。

営業支援システム「エース21」の登場

営業活動の支援と事務の効率化を推進してきた大同生命は、1990年に全国の支社・営業所で営業支援システム「エース21」を稼働させます。その主な特徴は、営業活動のプロセス(見込客の発掘、設計書の作成、契約手続き、契約後の定期的なフォロー)に沿って職員をサポートしていく仕組みが備わっていることと、電話番号をキーにして外部の顧客データと内部の情報をマッチングできることでした。それまでは「営業職員が自分で蓄積していくもの」とされた情報の多くを、エース21から得ることができるようになったのです。さらに1995年に登場した携帯端末「ハンディエース」が、営業スキルに大きな変化をもたらしました。ハンディエースは、支社・営業所単位ではなく、営業職員に一人一台配備され、お客さまの面前での端末操作を通じて、より高度なコンサルティングを可能にしました。

拡がる社会貢献活動

日本経済の発展と成熟化にともない、「企業は社会の一員である」という考えが広がりを見せました。大同生命においても、これまでの社会貢献活動に加え、関連財団である「大同生命国際文化基金」を1985年に設立。当基金を通じて、特にアジア諸国との文化交流事業に力を注ぎ、一般に知られる機会の少ないアジアの現代文芸作品の日本語翻訳・出版を手がけました。この出版事業は1995年に「メセナ国際賞」を、2000年には外務省所管の国際交流基金より「国際交流奨励賞」を受賞することとなります。ほかにも、創業90周年を迎えた1992年に「全国知的障害者スポーツ大会(ゆうあいピック)」への特別協賛を開始しました。この大会は2001年に「全国障害者スポーツ大会」となり、以降現在に至るまで大同生命は毎年特別協賛を継続しています。協賛金の寄付に加え、これまでにのべ1.1万人(2023年9月現在)の役職員を大会運営ボランティアとして派遣しており、大同生命の障がい者スポーツ支援の大きな柱となっています。また生命保険業界初のボランティア休職・休暇制度も1992年に導入され、役職員による自主的なボランティア組織「大同生命社会貢献の会」も設立されました。

新本社ビルの完成

1993年10月、大同生命は、本社を江坂から肥後橋の新本社ビルに移転しました。1970年代の中小企業定期保険路線への転換とともに江坂に本社を移してから、約20年後のことです。きっかけは、1925年に竣工したウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の旧肥後橋本社ビルが築60年以上経過して老朽化し、建て替えが必要となったことでした。長らく大阪のランドマークとして親しまれてきたビルの建て替えには多くの意見が寄せられ、それらをもとに、新ビルは旧ビルのイメージやデザインを継承し、遺構も多く取り入れつつ、都心の環境に調和させる建築物としました。「大同生命の源流」への回帰と、それを足場にした今後の飛躍となる本社ビル移転でした。

阪神・淡路大震災

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、6千人以上の尊い命が犠牲となり、大きな被害をもたらしました。大同生命でも阪神エリアのいくつかの支社ビルで大きな被害が発生しましたが、幸い役職員は無事であったため、阪神支社・明石支社(当時)は翌日、神戸支社は1月26日に店舗を移転してお客さまへのサポート業務を再開しました。また、阪神高速道路が横倒しになるなどの被災地の惨状を見て、全国からボランティアが集まりましたが、大同生命でも役職員による現地支援や診療所スタッフによる医療支援、独身寮に住む若手従業員による周辺地域でのボランティアが行われました。阪神・淡路大震災によって、大同生命は大災害に対応する危機管理の必要性をあらためて認識し、「大地震災害対策細則」および「防災ハンドブック」を策定しました。